中村文昭と夢の講師陣によるご縁つむぎ大学@静岡校の第6講が本日掛川大日本報徳社で開催されます。「中村文昭」氏を校長に迎え、2017年1月より「ご縁紡ぎ大学@静岡」の最終講義となります。この静岡校の最初と最後の講義がこの大日本報徳社で開催されることに大いに感激しています。
というのはこの場所が多くの先人たちがご縁を元に地域づくり、国づくりをしてきた場所だからです。大日本報徳社がこの遠州・掛川になぜあるのか、信用金庫の第1号が掛川になるのかをぜひ知ってほしいと思います。
小田原生まれの二宮尊徳(金次郎)の教え「報徳」は江戸時代、日光など関東で農村復興を導きました。この「報徳の教え」が 遠州地方に入ってきたのが江戸時代末期(弘化年間)でした。各地に報徳社ができ始め岡田佐平治氏が掛川市倉真に報徳社を設立し、遠州報徳七人衆が選ばれ日光に二宮尊徳に面会に行きます。ちょうどペリーが黒船で日本にやってきたころ、そして、その後安政の大地震が起こったです。
二宮尊徳から教えを受けた先人たちは遠州地方各地に報徳社を設け、明治8年には遠江国報徳社を設立、第1館を浜松に第2館を磐田見付に第3館をここ掛川に設けています。
遠州地方の報徳は、江戸時代の報徳の教えが農村復興であったに対し、商業・工業・金融業など多方面に活かされ、広がっていきます。この代表的な例として、我が町森町出身の鈴木藤三郎は報徳の教えを実業に実践し、159件の発明をし、砂糖の国産化を実現します。
岡田佐平治の子良一郎は日光で二宮尊徳と暮らし、直に教えを受け、遠江国報徳社社長となります。1877(明治 10)現在の県立掛川西高校のルーツである冀北(きほく)学社を創立 1879(明治12)掛川信用金庫の前身である勧業資金積立組合を創設し、これが日本の信用金庫の出発点とされてます。
遠州地方を経由した報徳の教えは全国の実業界に広がり、豊田佐吉や松下幸之助、大原孫三郎など「報徳の教え」をよりどころにしている多くの実業家を生んでおり、今でも多くの企業の礎をなっています。
遠州地方の報徳は、1898(明治31)浜松、見付(磐田)掛川に分散していた事務所が掛川に統一され、1903(明治36)には現大講堂完成が完成し、1911(明治44)社名を大日本報徳社と改称されます。
先人たちが長きにわたり学びあったこの場所でのご縁つむぎ大学は、地域や全国で活躍していく方々、これから活躍する方々に多くの実りを導いてくれるでしょう。
大日本報徳社正門。「道徳なき経済のない道徳は寝言であり、道徳のない経済は犯罪である。」と道徳と経済は一元融合のものであることを説いています。
正面が大講堂。報徳運動の拠点として明治36年に建設され、当初は「遠江国報徳社農学社公会堂」と呼ばれていました。公会堂として建てられた建物では日本で2番目に建築され、現存する公会堂としては最古の建築物となるため、貴重な文化施設です(掛川市HPより)
。
この大講堂では毎月常会が開催され、平成29年5月の常会で1700回を数えます。明治8年から141年も学びの場が続いているのです。
元大日本報徳社社長岡田良一郎氏
「無尽蔵」は、道歌の中の「天津日(あまつひ)の恵みつみおく無尽蔵 くわで掘り出せかまで刈り取れ」の中の言葉です。 人は天地空など自然の恵みを受けて生きています。その中から種をまき、食糧となる農作物を育てます。そこにはお金は必要ありません。人が働けば、天は無尽蔵に恩恵を与えてくれる、そうした勤労や努力の大切さが「無尽蔵」という言葉には込められています。
「無尽蔵」は報徳の教えのシンボル的言葉でもあるのです。(大日本報徳社フェイスブックより。)