中村秀吉翁が記した明治の森町の物語。
「外堤防は自然川洲の寄せ来りしに基き設けられたるには非らるかと想はる。内外堤防の間は五、六間及至十間位にて一般に非常の久保地にて竹林鬱蒼とし、外堤に達する所より、十五、六間の北にて向天方と森の胼絡たる架橋は天方全部と新町を主に有志の力にて私設成り。天新橋といふ現在の天森橋の基因なり。原ノ谷方面との交通を自然開け橋の附近住家も出来、所々竹藪の伐れるに随ひ行通は年と共に多く成り、橋の其附近は追々家々も出来内外堤防の間なる久保地は何時となく埋め立てられた。」このころ向天方と森を結ぶ橋は、今の天森橋より少し南側2分団3部の消防小屋より少し上流にあったと思われる。報本社史にも次のように書かれている。「太田川の森川橋は、私人所有のため橋銭を取っていたので、人々は不便を感じていた。報本社社長は森町有志と話し合い、社金360円でこの橋を購入し、橋賃を廃して人々の便を図った。また、原田村(現掛川市)より森町に通ずる里道は太田川に橋がないので不便であった。明治12年、森町の天城忠三郎など有志とともに金500円を費やして橋をかけ、里人の便を図った。」