遠江を耕した男たち3

一昨日、昨日に引き続き「報徳リーダーの心意気 池田充義著」について紹介します。
遠江に花開いた明治維新は全国とは違ったものだった。やらまいか精神のルーツはここになるのではないかと思う。

「(続きから)
明治16年、気賀村にて塩化マグネシウム(苦汁)を研究していた市野村の発明家富田久三郎との出合いは、彼が農工一体改革を目指す若き郡長に熱情に惚れて、西遠農学社の顧問として参加した。発明家の久三郎は、藺草の屑を再利用して、養蚕の網を考案した。その結果この地方は養蚕が盛んになって、村人の副業として大きな収入源となった。又、藁、萱、砂糖黍の殻を原料とした和紙の製造法を考案して、和紙職人の紙すきに多大な貢献をした。その後、久三郎は四国鳴門にて、発明家として会社を起こし大成功を収めたのである。十湖宗匠と生涯の友として交際があった。
 明治15年の西遠農学社発足から5年後、明治20年には、三遠農学社と改名し松島授三郎(51歳)が社長に、盟友神谷正信(62歳)が顧問に就任し、遠江、駿河、三河まで会が広がって農民の明治維新が花開いたのである。
 1847年から1893年(明治26年)までの偉大な指導者安居院翁と福山瀧助翁が正しく報徳運動を伝授したことが、三遠農学社が農民や商人に広く浸透した基であろう。
 明治20年、母の看病のため、郷里に帰って行ったが、吉平郡長の、5年間の政治力は多くの人の知るところとなり、その後、十湖様と呼ばれ、地域の絶大なリーダーとして、地域の発展に多大な貢献をした。また、俳諧では、十湖の宗匠として全国の門人から、あがめられる存在となったのである。
 明治23年、19歳の大木久市郎は十湖宗匠に入門した。この青年の資質は、宗匠の目の眼力にとまり、薫陶を受けることになっていった。明治27年神谷正信の末娘きと(18歳)は、十湖宗匠の仲立ちで久市郎と結ばれた。報徳家で育った妻きとの内助の功のお陰で、久市郎は号を随處(ずいしょ)とし、十湖宗匠の歩んだ報徳訓導と俳諧の宗匠の道を歩んだのである。(続く)」
遠江を耕した男たち3


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