不二農園へ行ってきました

藤三郎ゆかりの不二農園を見学に不二聖心女子学院に行ってきました。「裾野市に現存する大規模茶園(不二農園)について」という資料をいただきました。

「不二農園はどうしてできたのだろうか、今から約130年前、明治8年(1875年)1月に還禄士族7名が、政府に払い下げ運動を起こした時にさかのぼる。この士族は、松平正修、御殿医者津田実、岡田峻三、古山欽三、高橋次郎、鈴木芳郎、和田正蔵の7名である。当時、静岡県初代県令の大迫定清宛の払い下げ申請関係文書に、元定輪寺領上地、35町歩、この地代875円。払い下げの範囲は「元定輪寺領字 東ハ御嶽森より 西ハ弓張松迄 南ハ沢境より 北ハ大畑村境迄」と記されている。払い下げを受けた7名の士族は大畑村に住みつき、農場を開墾し、茶を播き、造林を行った。この他にも2~3名の士族が開墾に参加していたという。開いた畑に茶を播き、山には杉、檜、松、栗を植えて長期計画をたてて、生活も安定していったが、明治の中頃になって茶の市況が急転、暴落を続けた。収入は不安定となり、生計をたてることが次第に困難となっていった。この士族たちの困難を見かねたのが遠州森町生れの実業家、鈴木藤三郎氏であった。鈴木氏は明治32年10月、農場全部を肩代わりした。鈴木藤三郎氏は「明治10年、21歳のとき氷砂糖の製造法の研究を始め、16年製造法を発見、17年森町に工場を建設、22年に東京に移した。後に精糖事業を兼ね、大日本製糖会社に発展、更に台湾製糖会社を設立、製糖業の第一人者であった。明治32年「鈴木農場」となったこの農場の主体は、茶園と果樹園で山林の手入れ育成にも工夫をこらし、乳牛を導入して酪農経営も行うなど、地方の営農に改善をもたらした。鈴木氏は、醤油の研究にも熱心で多大な投資をして化学醤油(アミノ酸醤油)の実現を企てたが、実用化に至らず失敗し倒産する破目となったのである。この鈴木に援助の手をさしのべたのが、関西経済界第一人者の岩下清周氏で、大正3年のことである。当時、岩下氏は北浜銀行の頭取であった。農場を引き継いだ岩下氏は、農場の名前を「不二農園」と改めここに不二農園の歴史が始まったのです。不二農園は、富岡村大畑、桃園にまたがる75町歩の膨大な地域を占め、そのうち56町歩は山林、16町歩は茶園、他は果樹蔬菜園、住宅地等です。敷地内には10家族の農夫が常駐して仕事を分担し、茶園の手入れ製茶から季節によっては植林、果樹蔬菜の手入れまでしていました。茶の品種は主に「やぶきた」「おおいわせ」「ただにしき(紅茶専用茶)」です。昭和50年頃までは製茶時期になると、隣接する千福の人々を始め百人余の男女を増員し茶摘みをし、畑からケーブルカーを使って製茶工場に運んだ。製茶工場の方は昼夜兼行で玉露、煎茶、紅茶等を使って製造する。その額は年約一萬貫を超えたという。製茶工場は現在に場所より下の方にあり現在の場所に移ったのは東名高速道路が建設された時に現在に場所に移設されました。製品の大部分は静岡市場卸とするが、一部は再生されマーケットや小賈店を通じて直接需要家の嗜好を満たしている。農夫の勞賃は日給制度であって四大節はその子弟と共に現園主の創立された私立小學校温情舎の儀式に出席し、毎日曜は休養日として精神講話等を聞いて、その本来に意義に添うように勤めている。昭和20年、約21萬坪に及び農園が聖心女子学園に寄贈されて現在に至っています。現在、この不二農園(現在3町歩)は、隣接する不二精神女子学院の生徒による茶摘の体験学習、植生研究の場として活用されています。加工された茶葉は紅茶、緑茶、ほうじ茶として学校で飲用される他、一般販売されており、自園自製のお茶として全国各地の同校卒業生、保護者を中心に幅広く愛されています。昭和22年不二農園の農作業の姿を描いた絵(古桜作)が現存していますが、現在に地形とそんなに変わっていない事がわかります。」本当に広大な敷地がそのままの形で残され、絶好の教育環境が保たれていると思った。
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