森町変遷雑記〜新町4

明治の森の町物語。新町の章。
「然るに昭和の年に入(り)、鉄道馬車は電鉄と変転するに至り、路線も向天方南端より直通し、馬車会社時代の造営物一切改築され、道路も広められ、現在は森町要部への玄関口とも可云枢要の場所となれり。
 太田川は無論堅固なる堤防もなく、唯内堤防は天宮、川向(※神社前)より瀬入川北側に達し、更に天宮本朝及新町宮下迄通したるは余程往古の施設ならんか。
 外堤防は自然川洲の寄せ来りしに基き設けられたるに非さるかと想はる。内外堤防の間は五、六間乃至十間位にて、一般に非常の久保地にて竹林鬱蒼とし、外堤の川縁り又竹薮にて、堤防の道はあるも昼猶暗き程にて人の往来は稀なりしが、新町の中程に新町横丁と云ふ小路あり、向天方への往来には便宜にして、外堤に達する所より十五、六間の北にて向天方と森の(耳+井みたいなの)絡たる架橋は、天方全部と新町を主に有志の力にて私設成(り)(※天新橋と云ふ 現在の天森橋の基因なり)原ノ谷方面との交通を自然開け、橋附近住家も出来、所々竹薮の伐れるに随ひ行通は年と共に多く成り、橋の基附近は追々家屋も出来、内外堤防の間なる久保地は何時となく埋め立てられたり。
 明治二十九年天方に遊郭の出来るに至り総て一変し、同三十九年橋の根元に写真師の開業者あり、竹薮も伐り尽され、新町と天宮境なる幽霊小路も漸く明るみを感したる其上、大正末期か昭和の初、西明治丁へ貫通路と成り、鉄道馬車は電車と成り、天方への橋も新町、横町より真直くの場所に架け更へ、天方橋ならで森町全町要路の架橋と成(る)。
 太田川改修工事の大堤防は森川橋際より直通し、其堤防下が立派な通路と成り、電車駅より新町浦は片側ながらも住家連なり、表街路に勝る程となりたり。
 転して新町西側浦通りは南横町浦に連り、本通りより明治丁への街路に合す。」
森町変遷雑記〜新町4
写真は戦前の絵はがき。明治町にあった森町学校(柿畑があった場所)。遠くに天森橋が見えるが、ちょうど今の長坂食堂の通りを入ったところに橋があったと思われる。その橋がかすかに写っている。


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