「生まれてきたときよりも より良くして残したい」

東京北区にある知水博物館で「土木技師 青山士の軌跡をたどる」パネル展が行われている。先日、訪問しブログでも紹介している。
青山士(あきら)は明治11(1878)年磐田市生まれ、明治36(1903)年7月に東京帝大土木工学科を卒業し.ただちに当時東大の主任教授であった広井勇博士の紹介状を携えて渡米,やがて明治36(1904)年から再開のパナマ運河工事に参加、日本人としてただ一人,この世紀の大事業に土木技師として加わり,青春の情熱を優けること7年半,明治45(1912)年1月,同工事が約80%,ほぼ完成の段階で帰国する。
 この年から昭和11(1936)年に内務技監として退官までの24年間,内務省に奉職.この間,東京土木出張所管内では荒川改修事務所にて明治43(1910)年大洪水後に計画された荒川放水路工事を完成させ,昭和2年から同6年までは新潟土木出張所長として信濃川大河津分水工事を完成させている。
 太平洋戦争中パナマ運河破壊計画を海軍から相談されたとき,彼は"私は造ることは知っているが壊し方は知らない"と答えたという。.彼は一生を通して,人類と正義を愛し,人間的な教養と東洋的趣味に豊かで漢詩や俳句を愛謂し,令嬢が嫁するときに,武士の習慣に則って懐剣を与えたことにも,その性格と精神が示されている.気高く雄々しい明治の土木技術者の典型と言える。
 晩年は静岡県磐田市の自宅で心の師であつた内村鑑三の著作をはじめ,土木事業,キリスト教,哲学,技術書を愛読,敬虔にして心静かな老後を過ごし,昭和38(1963)年磐田の自宅にて84年の生涯を閉じている。
(土木学会土木図書館デジタルアーカイブス参照(『土木と200人』土木学会 1984 から引用。執筆担当:高橋 裕)

 「青山士」といっても地元でも知る人は少ないであろう。しかし、荒川放水路を造り、あの関東平野の坂東太郎と呼ばれる大河を治め、今の東京の治水の基礎を作り、一方で日本海に面する信濃平野を流れる日本一の河川信濃川にも信濃川放水路を造り、新潟に水の安全の基盤を作ったのはこの「青山士」である。そして、その始まりは東京大学の広井勇博士との出会いであり、パナマへの渡航であった。
戦前、たった一人でパナマに渡り、一技術者として世界的な大工事携わることに挑戦した遠州人がいたことをぜひ知ってほしいと私は思う。

パネル展は8月26日まででぜひ磐田の人には見てほしいし、できるなばここに飾られた展示をお借りして磐田や静岡県内でも行ってほしいと思う。このブログを読まれた関係者の方がいれば、ぜひ実現してほしいと思う。

いろいろな偉人はいるけれども「私はこの世を私が生まれてきたときよりもよりよくして残したい」という彼の精神は郷土の若い人たちにも受け継がれるべきものである。そのためにも郷里でも2回目のこのパネル展の実現を願っている。
「生まれてきたときよりも より良くして残したい」

「生まれてきたときよりも より良くして残したい」

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「生まれてきたときよりも より良くして残したい」

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