森町変遷雑記~新町2
新町の章の続き
「明治十六、七年頃と覚ゆ、天宮川向に古き阿波屋と云ふ人、主となり此地に魚問屋を創設し、沿海各地の魚商人等と地方宿屋、料理屋連と会し、魚類の競り市を為し、益々盛大し、時人魚会所と云へり。後年明治町出来移転、其内容は(あなかんむり+規)知せざるも、現在小学校前の問屋の基なり。
此堤防は宮下出寄水門を起点に、横町出寄を横断、新町、天宮の東浦に当る最も古き堤防にして、更に其内側下に添ふての汚水路が南下し宮下を通過、五軒丁大堀に達する溝渠なり。
明治二十年頃、此溝を設け汚水を押し流すべく瀬入川縁りに箱樋を添へ、北方にて森田甫用水を分入流をなせり。
外堤防は内堤防より十間内外東に在り。内堤防と併行し、北方天宮に達すと云ふか、天宮浦が起点なりし様なり。
内外堤防の間は窪地の竹薮、外堤防外も又竹薮なり。
此堤外右方は塵埃の捨場にされ、左方は材木商の木挽小屋の敷地、又材木の置場に用ひられ居たり。
外堤防は川の淵の辺りなる寄り洲にて終る。
北方へは堤上細々ながら通路にして新町、天宮東浦に至る。
此附近現今の状態よりは想像も付かざる変改に付、更に旧状態を記すると共に当時の状況を記す。横町よりの通りなるも新町の角よりの道巾狭まり、内堤下に達す。北側に三戸、南側に又三戸と少しの空地あり。北側堤の根元に古き髪結床あり。主人は高木久米吉と云ひ、キリスト教信者にして品性も正しく、其頃云ふ文明開化向きの人にて、断髪令出つる早々東京に出、散髪の要を知り得て理髪業を創めたり。是地方斯業の(こう)矢と聞」
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