「鈴木鉄工部」からの年賀状

「鈴木鉄工部」からの絵葉書を手に入れた。

鈴木鉄工部は、鈴木藤三郎翁が創設したものである。
藤三郎翁は明治16年氷砂糖製法を発明後、明治22年に東京小名木川沿い(現江東区北砂)に進出する。ここで本格的な砂糖の生産を行い、「我が国製糖業発祥の地」が建てられている。鉄工部はこの地に明治24年に鈴木製糖所の一部として設けられたものである。その後、製糖業の方は、明治28年(1895年)にはわが国最初の近代的製糖事業として、日本精製糖株式会社が設立されており、これが現在の大日本明治精糖の創業となっている。

鈴木鉄工部について、鈴木五郎著「鈴木藤三郎伝」に次のように記されている。
「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 248ページ
「鈴木鉄工部は、明治24年(1891年)に、わずか3千円の資本で設立された当時は、3間に10間の長屋風な建物に、機械としては、鍛冶道具に小形な旋盤と2馬力のエンジンを備えたばかりであった。藤三郎は約20年に近い間、これから一文の配当も取らずに、利益があれば、それを事業に投じたので、一般に鉄工場の経営は困難しされていた時代であったのに、年々発展して、当時では敷地3,500坪、従業員400人を抱えた、東京でも屈指の大鉄工所になっていた。これには、もっぱら次男の次郎を主事として当たらせていた。なお、近年しきりに発明をするようになってから、その事務一切を取扱わせるために、邸内に鈴木発明部を設けた。」

鈴木藤三郎の功績の中で製糖業にばかり注目が行くが、実はこの鈴木鉄工部が「発明王 鈴木藤三郎」を作り出した源なのだと思う。
森町には駿河遠江國総大工山田七郎左衛門が居を構え、鋳物師の文化が栄えていた。森町内には今も「鐘鋳場」という字が残され、森町は鉄工のまちでもあったことが伺える。この文化は「森山焼」や「遠州瓦」として受け継がれ、一方ではこの鈴木鉄工部へつながっているのだと思う。単なる田舎町ではこれだけのものを作り出す技術をもっていると想像しにくい。

また、この鈴木鉄工部から優秀な技術者が育っている。GAIAさんのブログに記されている。
http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/diary/201105240002/
「鈴木鉄工部は、明治24年(1891)1月に長屋風の建物に創立された。藤三郎は約20年近く配当をとらず、利益があればそれを事業に投じて、敷地3,500坪、従業員400人を有する大鉄工所になった。発明部も設け、近代日本工業における一大人材供給源となった。後に荏原製作所の創設者となる畠山一清氏も大学卒業後、工場長として迎えられた。畠山氏はその自伝「熱と誠」において次のように述べる。
「学校を卒業し、最初に就職したのが鈴木鉄工所という小さな会社だった。鈴木鉄工所には2つの部門があった。一つは鈴木発明部といい、文字どおり発明に関する仕事をやるわけだが、主な仕事は設計をすることだった。もう一つが鈴木工作部で、これは機械をつくる部門で、発明部が設計したものを、ここで機械にするわけだ。この2つの部門を総称して『鈴木鉄工所』と呼んでいたが、社長鈴木藤三郎さんは、無類の発明家であり、当時の実業界でも、異色の大人物だった。初任給は50円くらいだった。いきなり技師長の肩書きをもらって入社したのだから、異例の待遇だったといえよう。『若い技師長さん』の私は、年配者にまじって一生懸命だった。私は鈴木社長のもとで、足かけ5年、エンジニアとして勉強させてもらい、大きな設計や仕事をやらせてもらった。だが、それにもまして私に大きな影響を与えたのは、氏の信奉する報徳精神だった。報徳精神とは、二宮尊徳の報徳の教えより出ているもので、一口にいうと『人間は朝から晩まで働き、生まれて死ぬまで働きつくすものなり』というのが根本精神になっている。いいかえれば、『社会は年とともに発展、向上していかなければならない。そのためには、われわれが、後世に蓄積を残さなければならない。われわれがこの世の中に生活していくためには、みずからたいへんな消費をする。その消費を償って、なおかつプラスのものを、後世に残していかなければならない。だから朝から晩まで働かなければならないのだ』という論旨から成り立っている。・・・思えば鈴木藤三郎さんの精神は、その薫陶を受けた私の処世訓ともなっているのである。」
また、月島機械株式会社初代社長の黒板伝作氏も、明治33年(1900)東京帝大工科大学機械科を卒業した後、鈴木鉄工部に勤めた。黒板氏は入社した鉄工部に5年近く関係し、強い慰留を辞して後に独立への道を歩み出し、明治38年(1906)東京月島機械製作所を創業した。
「月島機械株式会社史」抜粋-黒板伝作- 昭和32年6月28日発行
 黒板伝作氏は、長崎県東彼杵(そのぎ)郡西大村に黒板要平氏の次男として、明治9年6月金沢市に生まれた。要平氏は士族出身で、警察官出身で、折尾瀬(おりおぜ)村長を勤め、母親は小学校の裁縫の先生をしていた。黒板家では、兄勝美氏を東京帝国大学に学ばせていたので、伝作を上級学校に進学させる余裕は家になかった。
黒板伝作氏は、大村中学4年を終えて小学校教員の試験を受け、中学校卒業とともに、折尾瀬小学校の准教員として教壇に立った。たまたま県視学が巡視の際に、秀才をこのまま朽ちらせるのは気の毒だ、幸い工業伝習所生徒募集中であるから県から推薦しようということになった。兄勝美氏に相談すると、せっかく学問するなら高等学校に進めと助言を受け、小学校教員を9月まで勤め、学資を貯めて熊本第五高等学校入学が決定した。第二部(工科)に進み、優秀な成績で卒業し、明治30年、東京帝国大学に入学し、工科大学機械工学科に席を置いた。在学中は三菱合資会社奨学貸費を受けていた。
<「月島機械株式会社史」148~149ページ 「長崎日日新聞」昭和8年9月12日付の「黒板伝作君」>
二学年に進んだ秋の某日、気持が悪かったので、講義の時間中フイと教室を飛び出して校庭の芝生に寝転んでいると雀が飛んできた。つれづれに苦しんでいた君が小石を拾ってポンと投げると見事にあたった。伝作君が死んだ雀をぶら下げて、投げたツブテがよくあたったものと感心しているのを見つけて、教務所の窓から声をかけたのが機械科主任真野文二博士だった。なぜ講義を受けないのかと叱られたが、正直な君は気持が悪い時はいつもサボっていることを告白した。真野教授は君のボロボロ洋服に尻切れ草履のみすぼらしい姿を見て
「靴をはいたらよかろう」
「はかなきゃならぬという規則がありますか」
「そうハッキリした規則はないようじゃが、しかし見っともない」
「靴を買う金があれば、本を買います」
「それじゃあ、内職を世話しよう」
と、真野教授の世話で、当時発明者としられていた鈴木藤三郎氏経営の鈴木鉄工所に行った。
明治33年7月、東京帝国大学工科大学機械科の第25回生、24名中の一人として卒業した。時に満24歳であった。
当時最高学府を出た者は、官吏になるのが常識であったが、黒板氏はかねて学生時代に、鈴木鉄工部の支配人小野徳太郎氏に、機械の知識を教えていた縁故と、機械に対する執着から、卒業と同時に同鉄工部の技師として入社し、かたわら日本精製糖株式会社の器械嘱託技師をも勤めた。この間の事情については次のように伝えられている。
「鈴木氏が専務たる日本精製糖の機械主任に聘用したいという話が持ち上がり、重役が会いたいというので出かけて、まず工場を見た上で話を決めようと提言したが、工場には秘密な部分があるので、社員でないと見せられないというので言われ、「入社して秘密を盗んで逃げ出したらどうするか」といってサッサと退却した。その率直なところがかえって好感をもって迎えられ、真野教授の口利きで、再度精製糖会社を訪問し、今度は工場を見せてもらったが、学校で教わったくらいでは実際の仕事は分かるものではないことが判ったくらいであった。
そして学校卒業後、機械主任として入社することになり、200円前借して苦学生たちまち大尽となった。すると鈴木専務から鈴木鉄工所に入社を勧められ、製糖会社で機械の番をするより鉄工所で機械を作るほうが面白かろうと即座に承諾した。卒業式の翌日、鉄工所に顔を出すと、鈴木社長が卒業証書を持って来たかと訊くので、卒業証書を雇うのか、人を雇うのかと一本参り、かくて若い工学士は工場の人となり、一つには月給のため、二つには自分の将来のため、三つには世間のためと、三人前の勤めをする覚悟で真黒くなって働いた。(長崎日日新聞)
最初は日本精製糖から話があって同社の器械主任として入社することに一応決まったが、その後同社の専務であった鈴木氏から同氏個人の経営になる鈴木鉄工部への入社を勧められ、学生時代から協力した関係もあり、かつ機械の製作に興味を持つ黒板氏としては『鈴木鉄工部』に入社を決定した。しかし鈴木氏と日本精製糖との密接な事業上の関係から、後に日本精製糖の嘱託も兼ねるに至った。明治35年2月5日付けの「技師、黒坂伝作、自今月俸金六拾五円ヲ給ス」という記録があるという。
元来、鈴木藤三郎氏は事業家としても、また発明家としても世に知られた人で、日本で初めて氷砂糖の製造に成功し、精製糖、製塩、醤油、魚粉肥料、水産食料品等の発明に及び、またこれらに関する多くの事業をも経営した。特に精製糖については明治28年、英国ハーバー・エンヂニアー社から機械を購入して本邦唯一の精糖工場を経営し、かたわら農場までも開いていた事業家でもあった。
日本精製糖株式会社は、明治22年6月、鈴木製糖部と称して鈴木藤三郎氏個人経営の、試験的精製糖工場であったが、明治28年12月、資本金30万円の株式会社となり、黒板氏が関係した当時は、鈴木氏は同社専務取締役兼技師長であった。」

さらには、私がかって台湾を訪れた際に、台湾の友人であり台湾製糖株式会社の歴史に詳しいZ氏が、台湾の鋳物の発祥のひとつが鈴木藤三郎の起こした台湾製糖株式会社に由来し、高雄市にあるといい、これが台湾スチールにつながっているのではないかと話されたことがある。
台湾製糖株式会社(現台糖:糖業博物館)には鈴木藤三郎ゆかりの黒銅聖観音があるが、これも森町発の鋳物文化の流れを物語るものだと思う。

さて、絵葉書には、「明治41年正月元旦 次郎」と書かれ、森町の住人にあてた年賀状である。表面には鈴木藤三郎氏とおそらくは鈴木次郎氏と思われる人物の写真が掲載されている。
このはがきはいすれ森町の宝となることだろうが、大阪に住む鈴木藤三郎の曾孫である友人、つまりは次郎氏の孫にお爺さんの遺品として渡そうと考えている。
「鈴木鉄工部」からの年賀状


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